煤け四六

傑作ロボ、発進!

てるたざる

『持てる』『持たざる』の持つとは何を持つなのかを当てはめていったらキリもないし、隣の庭ほど目に青く映るような見え方の差のことだったりもするのだろうと思う。

普段は忘れているけど、私は、子供のころから自分の部屋があって、庭のあるお家に住んでいて、金銭に行き詰っても帰るところがあって、そんな人々はどれひとつ持たない私を羨む必要はないと思うけど、例えば私が、自分の居場所を我慢するトレードにこつこつ集めた本を自分の部屋もない狭い家の本棚にきっちりしまっておけば、遊びに来てくれたクラスメイトに「欲しいものが手に入っていいな」とか言われてきた。私が集めるために懸けた手間も、集めることで他人と違う家庭事情を飲み込むために必要な自分の健全さを維持するに至ったということも知らない人に、ぱっと見た部分で、何も考えずに何でも手に入ってきたかように羨まれるのが心底苦痛だった(そしてそういう人は大抵私より裕福な家の人だった)。

私はこれを大事にしていくしかないというものを自分の容量に収まるように大事にしているだけだし、私以上のものをたくさん抱えられる余地のある人、大事にするべきものをいざというときに忘れて持たぬ者ぶる人にどうして羨まなければならないのか、張り合われなければならないのか、また、自分より下がいると再確認したい自意識の貧困さを埋める道具にされなければならないのか、そういう失礼にひたすら関わりたくなかった。

私は持っている物を使って自分を満足させるように楽しむ人を見ているのは好きだけど、持っている物を無いかのように私に振る舞われても、本当に持っていない私にしたら、持っているものをわざわざ持っていないという嘘をつくことによって自他ともに損なわれるものの方が大きくないか?と思う。*1でも、自分は何も持っていないのだと思い込んで困るポーズをとるのが好きな人同士で集まって遊ぶと楽しいのかもしれない。

持てる者は堂々としていろしおらしくしろとかそういうことが言いたいのではない。私は私に直に言ってきた奴以外のことはどうでもいいし出来る限り属性で括りたくない。ただ、「それを持っている人からそう言われてもなあ」ということが生きてきて多すぎた。毒にしかならなかった。私は私が持てた物を大事にしようと思う。

私は自分の部屋に招いてくれて、楽しいと思うことや自分の好きなことや面白いと思う事を沢山教えてくれて、上手く出来なくても一緒に歌ったり絵を描いたりお菓子を作ってみたり、弾いたこともないピアノを片手ぶん教えて一緒に遊ばせてくれたり、私だけでは決して届かなかったことを、自分の好きなことだからとただ無邪気に教えてくれて一緒に体験して遊んでくれる人たちがとても好きだった。みんな良いお家のひとたちだった。だから私が良いお家に生まれなくても、私の好きだった者たちに近い生き物に自分もなれていたらいいなと思う。私の好きだった者たちはこういうダイアリは書かないかもしれないとも思うが……。

*1:前提が必要だったので序盤に書いたが、私は自分が持っていないものが何かをあまり他人に明かしたくはない。デメリットの方が大きい