煤け四六

傑作ロボ、発進!

なるようになる

昔、はてなグループにひとりグループを作って日記を使っていたころ、あまり良くない感情の話を、そういうのを読み慣れてスルーするかやや共感するか程度の距離感の人がいるような場所を使いたい(はてなはあまり優しくもないしいいか)と思って、もやもやなどをつけていた。見られても構わなかったので。

そのあとは Twitter がそれに向いていたので Twitter で適当に書くほうが楽だった。

今は、そういうことをつけておきたい場所が思いつかない。「出来れば良いことを書いて広めましょう」的なものは沢山あるけれど、「別に宣伝したいわけでもないが自分の外に野ざらしにしたい」みたいな気持ちのやり場が減ってしまった。

繰り返しの話になってしまうが、 Twitter でネットと関係のない愚痴を書けば、二三回言葉を交わした程度の人や、さらには私からは接点を持ったことがなくただ私を一方的にフォローしていただけ(私からは見えていない)程度で、まるで日々付き合いのあるような面をして「それは私のことなのか」と言ってきたりなど、とにかく私と一緒に出かけたことも遊んだこともサシで通話さえしたこともないようなレベルの人が距離のない感覚で私のプライベートなぼやきをすべてインターネット上の公開されている、その人にまつわる何かに当てはめて解釈していることが不愉快だし苦痛に感じる。私の TL にそういう人がいるわけではないし、フォロワーがいるのが嫌とかではないのでただ見ているぶんには苦痛ではないが……。書くことに億劫になるとどうでもよくなってしまう。相手が誰だかわからないように書いているから自分じゃないかと思うんでしょうかね。私は誰にも誰だか当てさせたくないからそうしている。

他人のどんな感情も、広めるために存在するのではなくただそれぞれに野ざらしだから、共感できて好きだった。

ゲームの話

三日ぶんほどの無料期間を使って FF14 を三年ぶりくらいに遊んだ。蒼天最後のパッチあたりから遊んでいなかった。

当時課金をしなくなった理由は、なんとなく同じことの繰り返しと、メインのお話を追うのに飽きてしまったのと(クエスト自体を後回しにすることが増えた)、制限解除で過去のギミック無視プレイが増えてつまらなすぎたのと、人が一箇所に集ってわらわらしてるのが耐え難いのと、丁度よく私の嫌いな、武器の輝き集め周回再び……のフェーズに入ったので切ってしまった。

ダンジョンが好き

14 がなんとなく続けられていたのは、インスタンスダンジョンの進行がどことなくスクロールアクションに近いテンポを感じていたから。覚えた動きを再現するチャレンジが好きだった。当時よくお世話になっていたフレンドがログインしていない時は野良でやりたいことをやりまくっていた。レイド系は他人次第というのもあってあまりやらなかったけど、ダンジョン……特に 50 あたりの謎の粒揃いゴチャゴチャ感が好きだった。以前の私が参入した頃はすでに IL130 のまとめプレイの餌食になっていてギミックが機能していない部分も多かったけれど。

そういうわけで、 三年ぶりに 50ID を上から順に遊んだりした。使ったキャラがひとりでヒラ武者修行してた頃のやつだったので、全部ヒラでやることになってしまったけど、シリウスのズーで壊滅したり古アムダの扉テキトーに開ける人いたりして楽しかった。あと Tonberry の人とめちゃめちゃマッチするのでベタ打ちの日本語で挨拶しないのが当たり前になってるのが面白い(私は英語できんので定型文変換で書いてる)。そういやお決まりでないプレイ、セオリー通りにならない進行をどうやるかに挑んでみたくてこのデータセンターに作ったんだよなあ。

スキルが増えたぶん減ってる

しかしレベル上限上がってやること増えたせいなのか、過去のスキルが減りまくっててウォ〜てなった。

レベルシンクの撃ち分けめんどい系が勝手にまとまるようになったのは素敵アプデ。

攻撃技がだいぶなくなってて、スカルサンダーで中央ラノシアの岩を砕いた思い出よさらば! でもタンクにヘイトガッチリ固定されるようになったっぽくて楽だった。

占ちゃんのカードはなんか実質二種類みたいになってて謎だったし引くボタンと配るボタンが別になっててウォ〜。レベルを上げると 六種類ぶんのなんらかが付いてくるのだろうか……。

エギと妖精がただのオプションと化しててちょっと寂しかった……攻撃指示を入れたり癒し指示連打しながら攻撃したりラウズだのスパーだのサスティンだので耐久管理するのかなり好きだったよ……! 中央ラノシアでペット操作練習した日々よさらば!(思い出全部中央ラノシアか?)

リューサンしかチェックしてないけど、近接技の方向指定もかなり減っててすげーシンプル。出だしのヘヴィなくなってたの面白い。

観光した

14 は、そんなに高スペック PC でなくても観光が楽しいくらいにグラフィックにまとまりがあって絵になる。私は街の露天のカウンターの内側などに入るのが好きで、このゲームはジャンプができることでわりとその夢も叶う。そこらに佇む NPC などに愛着があった。

私は丁度グループポーズ機能が実装された頃に止めてしまったので、機能を使った写真をあまりとれなかったんだけど、今回はエフェクト強調フィルタでいろいろ撮ってみてかなり楽しかった。

通しでいろいろタターッと遊ぶのにはルガディンが見やすいし動きもわかりやすいし強そうで最高なんだけど、写真を撮るとなると主観カメラで一番地面に近くなれるララフェルがすげー便利なんだよな……ただララフェルは戦闘で自機がどこにいるのか見失いやすいのと酔いやすくて長時間は使いづらい。どうすりゃいいんだ。

まあそんな感じでいろいろ楽しかった。そのうちまた観光に行って、はてフォに写真をため込んでいくのいいかもしれない。あと久々に美容師のジャンドゥレーヌさんに会えて良かった。♪チャーラッチャ〜〜(テレレレ〜)「キィィイイルゥゥゥ オア ダイッ!」キルでお願いします。

ハァまじ美容院行かなきゃ……

布を被れ

特に誰に見られるのが嫌とかではないけれど、趣味について細かく記録をするのが億劫になることがある。振り返りたくないのかもしれないし、記録に使う時間を他のことに割きたいのかもしれない。

例えば今週は色々なゲームをしたけれど、それらについてはその楽しさを誰かとわかちたいという気持ちがないのかもしれない。どちらかというとほぼ同じ目的とメンタルでこれらのゲームを遊べる人とだったら話したいような気はするけど、少なくとも、自分を見て欲しい人に何をしているか見られて材料にされるのが嫌だと思っている。これは現在進行中で誰かからそのようにされているわけではないしそのような人が身近にいてというわけでもない、ただの経験則の思い出しデバフが発動中なだけです。

ゲームとは関係ないが、他人の屈折した自己顕示欲みたいなのが本当に無理になってしまった。私の推しはこじらせた態度から始まりそれだけではない色々な強さを教えてくれた。推しは自分を見て欲しさで私を持ち上げるようなことをしないのでとても好きだし憧れる。どれもフィクションだからこその単なる仕様でしかないが、他人に私のことをあれこれ吹聴もしない。外で他人に自慢するより本人を直接褒めてくれる。他者への評価を、例えばスネ夫くんが自分の親族はすごいなどと言うかのような自分への紐付けを行うタイプではないだろう、なのでより好き。自分の物語がありながら、自分は物語を預り知らない立場であったことを大事にしている。紐付けられた物語を自分の箔付けにすらしなかった、己の立ち位置を変えない受け止め方がとてもカッコいいと思う。

単なる推しの話になってしまった。

面倒くさくて三年

どうあれば純粋か、というのは測りようがなく定義したくはないけれど、自分を見てもらうために好意を示すのは別におかしなことではないと私は思う。ただ、それ自体は自分の都合であり、もしも相手に迷惑をかけていないか心配する時も、相手が弱っているのだから一時誤解されても一旦やりすごせるくらいの余裕がなくては、他人から迷惑な人間だと思われたくないことばかりが優先されているかはありありと言葉や態度に出てしまうので、利己的な部分を持つ自分自身に自覚的になって素直に実行するほうが、むしろピュアではないかと思う。

好かれたい・嫌われたくないという気持ちは自己都合なのだけれど、それらからくる言動を相手に対する善意や好意、相手が悲しまないようにという自分の気遣いだと思い込むのは傲慢ではないだろうか。別に自己都合で構わないのだし。

私を、何でも曲解する人とかデリケートな人、みたいに言いふらそうとする人、だいたい自分の話じゃない時に自分の話ばかり持ってきてこっちの話は一切把握出来ていないのに「自分が誤解された」と暴れ出すんだけどなんで??

てるたざる

『持てる』『持たざる』の持つとは何を持つなのかを当てはめていったらキリもないし、隣の庭ほど目に青く映るような見え方の差のことだったりもするのだろうと思う。

普段は忘れているけど、私は、子供のころから自分の部屋があって、庭のあるお家に住んでいて、金銭に行き詰っても帰るところがあって、そんな人々はどれひとつ持たない私を羨む必要はないと思うけど、例えば私が、自分の居場所を我慢するトレードにこつこつ集めた本を自分の部屋もない狭い家の本棚にきっちりしまっておけば、遊びに来てくれたクラスメイトに「欲しいものが手に入っていいな」とか言われてきた。私が集めるために懸けた手間も、集めることで他人と違う家庭事情を飲み込むために必要な自分の健全さを維持するに至ったということも知らない人に、ぱっと見た部分で、何も考えずに何でも手に入ってきたかように羨まれるのが心底苦痛だった(そしてそういう人は大抵私より裕福な家の人だった)。

私はこれを大事にしていくしかないというものを自分の容量に収まるように大事にしているだけだし、私以上のものをたくさん抱えられる余地のある人、大事にするべきものをいざというときに忘れて持たぬ者ぶる人にどうして羨まなければならないのか、張り合われなければならないのか、また、自分より下がいると再確認したい自意識の貧困さを埋める道具にされなければならないのか、そういう失礼にひたすら関わりたくなかった。

私は持っている物を使って自分を満足させるように楽しむ人を見ているのは好きだけど、持っている物を無いかのように私に振る舞われても、本当に持っていない私にしたら、持っているものをわざわざ持っていないという嘘をつくことによって自他ともに損なわれるものの方が大きくないか?と思う。*1でも、自分は何も持っていないのだと思い込んで困るポーズをとるのが好きな人同士で集まって遊ぶと楽しいのかもしれない。

持てる者は堂々としていろしおらしくしろとかそういうことが言いたいのではない。私は私に直に言ってきた奴以外のことはどうでもいいし出来る限り属性で括りたくない。ただ、「それを持っている人からそう言われてもなあ」ということが生きてきて多すぎた。毒にしかならなかった。私は私が持てた物を大事にしようと思う。

私は自分の部屋に招いてくれて、楽しいと思うことや自分の好きなことや面白いと思う事を沢山教えてくれて、上手く出来なくても一緒に歌ったり絵を描いたりお菓子を作ってみたり、弾いたこともないピアノを片手ぶん教えて一緒に遊ばせてくれたり、私だけでは決して届かなかったことを、自分の好きなことだからとただ無邪気に教えてくれて一緒に体験して遊んでくれる人たちがとても好きだった。みんな良いお家のひとたちだった。だから私が良いお家に生まれなくても、私の好きだった者たちに近い生き物に自分もなれていたらいいなと思う。私の好きだった者たちはこういうダイアリは書かないかもしれないとも思うが……。

*1:前提が必要だったので序盤に書いたが、私は自分が持っていないものが何かをあまり他人に明かしたくはない。デメリットの方が大きい